玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ/木下龍也・岡野大嗣

バレーボールアナリストの垣花実樹(かきはな・みき)さんが、ツイキャス「アステリズムのしゃべくリズム」で短歌のことをお話しすると知り、その日の朝に子どものことを短歌で呟いた私は「短歌の風が吹いている」と感じてワクワクでその番組を視聴した。(いつか垣花さんにもスポーツを「言葉」と共に関わっていることについていろいろとインタビューしてみたい)

番組の中ではナナロク社から刊行された木下龍也(きのした・たつや)さんと岡野大嗣(おかの・だいじ)さんの歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を取り上げ、その読後の感想を話し合うという内容で、私は初めてその書籍の存在を知った。

すぐさまナナロク社のオンラインショップでサイン本を購入した。どんな歌を詠むのかも知りたかったし、お二人の筆跡を見てみたかったからだ。

二人の歌人が、二人の男子高校生になり、七日間を短歌で描く。

それだけでもう個人的には「勝ち」なのだが、ページを開いてみれば、それは「もっと」だった。

高校生というあの光の時間を、あの時と同じ速度で車窓から一瞬を切り取っていくような、鋭く強く忘れがたい景色が、脳内に差し込まれていく。思い出せなかった過去をフラッシュバックで引き戻して、身悶えするような感覚に似ていた。

合わせて、舞城王太郎さんのスピンオフ小説が2篇あり、1篇は福井弁で描かれていた。6人の女子高生。私は確実にその中に居座って、いつの間にかあーでもないこーでもないと一緒に会話している。

高校生の私。

ある日は、自転車で親友と帰る時、当時流行っていた「m.c.A・T」の「bomb a head」という曲を「ボンバへッ」ってフレーズがうまく言え過ぎて、「お前うま過ぎやろ。うちも負けん」「アホかもっとうちのがうまいわ」と言い合いになり、笑って笑ってもうハンドルのバランスを保てなくて堤防の坂を転げた。

ある日は、誰かに自分の裸を見てもらいたくて、フィルムカメラを風呂に持ち込んで撮ってみたがお湯に濡れてカメラをダメにした。

思い出したいような、思い出したくない、161718の時間の私。私たち。

ふと気づけば、今だ。私が、161718の私を抱きしめている。いや私、40なるんやぞ、今年。はっは。どんだけ引き戻されてるん。

我にかえり、私の「今」を鋭く強く、ピンしていく感覚を、この歌たちからほんの少し分けてもらえる気がしている。